頭の上の蝿を追え

しがない某京大生が日常を綴る

「陰キャラ」論

「俺は当然陰キャなので✋」

陽キャ怖い😭」

ツイッターのタイムラインを見ていると流れるツイートである。

このツイートには「自分は陰キャラだから○○をしない」、「陽キャラとされる相手は自分と相容れない存在だから苦手なタイプだろう」という意図がある。

生物学的に「オス/メス」の区別があるのと同じように社会では「陽キャ/陰キャ」という区別があるようである。そして「オス/メス」の区別と「陽キャ/陰キャ」の区別には決定的な違いがある。それは後者の区別において「陰キャラ」は蔑まれる言葉であり、いわば差別用語のようなニュアンスを持つということである。

陽キャラの主な特徴は

1.容姿が優れている

2.性格が明るく開放的、誰にも怖気づくことなく接することができる

3.コミュニケーション能力が高い

一方陰キャラの特徴は

1.容姿が薄汚い

2.内向的、基本見知らぬ人に対して恐怖を抱く。一方で心を開いた相手には徹底的に話す。

3.コミュニケーション能力が低い

陰キャラが蔑まれるのは仕方がない話である。なんせ今の時代はコミュニケーション能力が必要とされる時代。そうした価値観に日本全国が支配されている時代において陰キャラの社会からの需要は陽キャラには負けるだろう。

 

冒頭のツイートの例で示したように、「陰キャラだから行動に移したら違和感があること」というのが世の中にはあるらしい。そして「陰キャラと陽キャラ」は相容れない存在らしい。

そして「陰キャラだから行動に移すと違和感があること」を陰キャラが行動に移すと周りから叩かれる傾向がある。「陰キャラのくせに」、「陰キャラが調子に乗ってる」。こうした言説が毎日ネット上を飛び交う。

 

一度「陰キャラ」の烙印を押されるとあらゆる行動に対して実質的な制約を受ける。陽キャラだけでなく陰キャラ自身も他の陰キャラの行動に目を光らせて足の引っ張りあいをしている。その光景はジョージオーウェルの小説『1984』に描かれたディストピアさながらである。

ところでラベリング理論というものを聞いたことがあるだろうか。社会学者ベッカーによって提唱された理論で

「その人の特性はその人自身の行動というよりも他者から貼られたレッテルによって形成されていく。そして一度貼られたレッテルをもとに自身の行動パターンとアイデンティティを形成していく。」

というものである。

これは犯罪学に関する理論であるが、それをそのまま「陽キャラ/陰キャラ」の話に適用すると陰キャラは自身の行動というよりも人から「陰キャラ」といわれることによって自身の行動の幅を狭めているということになる。

陰キャラ」というラベリングによって見えなくなったことは確かに、そして大量に存在していると思う。例えば「陽キャラばかりだから行かなかったイベント」、そして「陽キャラだから付き合ってこなかった人々」。そういうものの中にも実際関わってみれば楽しく世界の幅を広げてくれるものがあるに違いない。

あえて呼ぼう。私を含めた「陰キャラ」の人たち、本当に現状で満足しているのだろうか?いつも陽キャラから馬鹿にされそして陽キャラに恐怖を抱く日々から抜け出したくはないだろうか?ルサンチマンに満ち溢れた日常から卒業したくはないだろうか?

人から「陰キャラ」と呼ばれることに甘んじているだけでは今の閉塞的な状況は何も変わらないのである。