中山道中車輪栗毛6日目
普段は朝をのんびりと迎える私もこの日は忙しい朝を過ごした。なんといっても昨日は28kmしか進んでいない。早いうちに長野県を抜けないと学校が始まるまでに京都に戻れない。
朝の6時過ぎに和田宿を出て佐久まで向かう。佐久への道中でも途中、笠取峠を越えた。昨日のことを思えば軽いものだ。そしてその峠を越えてしばらくすると太陽が顔を出した。実は中山道に入ってから一度も晴れ間を見ていなかった。太陽には不思議なエネルギーがあって人は太陽を見ると元気になる。私もテンションが上がり、あいみょんのマリーゴールドを口ずさみながら道を走った。
笠取峠を越えたら佐久まではほとんど下り道か平坦な道。
佐久に着くと一度自転車を駅の駐輪場に置く。中山道を離れ上田に向かう。
上田は真田昌幸が築き上げた名城、上田城の跡がある。「真田丸」を見た私にとって近くを通るならば是非と思っていたのだ。
上田城に真面目に触れるのは今回が初めてである。博物館の展示を見ていたが、上田城は本当によくできていると感心した。現在は影も形もないが、築城当時は上田城の周りを川が流れていた。その川が自然の要害となり敵の侵攻を阻む。
さらに上田城の城下町はあえて入り組ませてあった。その複雑さゆえに敵は隊列を小さく組んで進むしかない上にいざとなれば城下町に火をつければ敵軍に大きな混乱を与えることができる。
上田合戦は2度行われたが、約2千の真田兵で約4万の徳川軍を撃退した第2次上田合戦は特に有名だ。撃退できた秘訣の一部を垣間見ることができた気がした。
真田神社で残りわずかとなった道中の安全を願う。上田城を出たときどこか武運が身についた気がした。
佐久に戻り再び中山道を行く。
佐久から軽井沢まで再び上り坂だ。軽井沢までの道はそこまで険しくなく簡単に軽井沢に着いた。今でこそ軽井沢は関東方面の避暑地として名高いが、江戸時代には宿場が置かれていた。
軽井沢など訪れたことがなく何があるのか楽しみであった。
軽井沢の地に足を踏み入れる。しかしどこも高くて買えそうなものがない。私は自転車で貧乏旅をしているものである。そんな私にとってはどれも手が出ないものばかりだった。仕方なく観光だけしていく。
軽井沢は明治時代にカナダ人牧師のアレキサンダー・クロフト・ショーが別荘地として開拓したことで現在の地位を手に入れることができた。軽井沢の光景がスコットランドの自然地帯に似ていたらしい。
下は当時のショーの別荘を復元したショーハウス記念館。現在も現役の教会である。
下は雲場池。雲場池の周りにはこぞって別荘が立ち並び、別荘に訪れた人が散歩するにはうってつけの場所なのだろう。
この日は高崎まで行かなければならなかったので軽井沢に長居もできない。
軽井沢を出るとすぐに群馬県との境に入る。そして群馬県に入るとともに碓氷峠を超える。碓氷峠は片峠といって峠の片側だけが急な坂道となっている。軽井沢から高崎まではずっとダウンヒルだ。しかし碓氷峠はカーブが多くなかなか思い通りにダウンヒルできない。
碓氷峠は群馬県と長野県を結ぶ主要な峠であり古くから交通の要衝であった。明治時代、もっと早く群馬長野間を結びために碓井峠鉄道を開通させた。その後別の長野新幹線の開通によって東京長野間を短時間で移動できるようになり、碓氷峠鉄道の重要性は低下した。そして廃業となったのだが、その碓氷峠鉄道の跡が碓氷峠には残っている。
下は眼鏡橋で知られる橋梁。かつてはこの橋を鉄道が通っていた。
碓氷峠を下ると碓氷関所跡が見える。箱根関所、福島関所、新居関所はしっかりと観光資源化していたのに碓氷関所はどこか残念。
このまま高崎まで向かう。どうして高崎に向かわなければならないのか。それは高校時代の友人が高崎に住んでいてその家に泊めてもらうことになっていたからだ。約5日ぶりに知り合いと会う楽しみに心躍らされながら高崎に向かった。
友達と会うや否や「おつかれ」といわれるわけでもなく「きたな!」と言われた。そんな私を泊めてくれる友人に感謝である。
この日は95km/848mのアップ。
歴史学を学ぶ
文部科学省は積極的な学問改革を進めている。
研究成果がわかりやすく何かしらの産業に応用しやすい分野に投資しそれ以外の学問分野への投資を減らす。
その方針について著名な研究者からは批判が集まり物議を醸した。ちょうど、本庶佑先生がノーベル賞を受賞した頃にそうした文部科学省の方針に関心が向き、先生は「成果の出にくい基礎研究が最も大事。」という主旨のコメントを出し多くの共感を呼んだ。
それはどんな学問でも同じである。急にコペルニクス的転回が起きるわけはなく、様々な下積みがありその末に常識破りの発見がある。東南アジアの映像からその地域の文化を分析していた先生方がおっしゃった言葉は私の胸に深く刻まれている。
「『常識を破る』というのはなにも突飛なことをするというわけではない。それはただの非常識だ。『常識』という型を知らなければ常識は破れない。」
常識を知るためには基礎研究が必要で革新的な発見は基礎研究あってこそのものである。これは京都大学の先生方全員の共通認識でありおそらく全国の研究者の思うところであろう。
基礎研究の話は一度おいておこう。
文部科学省がいう「無駄」を省くとき、真っ先に俎上に上がった学問分野がある。それは文学部だ。
文学部は確かに理系の学問分野と比較すれば文系諸学問の中でも特に実態がわからない。そしてお金にもならない。哲学、文学、歴史学、言語学…。これらの学問は「趣味の学問」といわれることが多く、ネット上でも人文科学に対する予算を減らすことについては珍しく賛同意見が多かった印象だ。そして歴史的に見れば人文科学が金銭的に余裕のある人や国家によって培われてきた分野であることも確かだ。
だが、本当にそのような学問に意味はないのだろうか。今回は歴史学に限定して話をしたい。
私は高校生の頃から日本史学に関心があり日本史に取り組める環境として近場では最も京大が優れていたため京大を志した。そんな私もただ日本史が好きなだけで歴史学の意味については深く考えなかった。しかし歴史学を学ぶものとして歴史学の意義や意味を知りたいのは必定である。
歴史哲学の書の中で最も著名なものの1つに、イギリスの外交官で歴史家でもあったE.H.カーの書『歴史とはなにか』が挙げられるだろう。書かれた年代が米ソ対立の深刻な時期で少し古いため、すべての内容が現在に当てはまるかといわれれば怪しいが、考え方そのものは今にも通ずるものが多い。
私は『歴史とはなにか』に多大な影響を受け、根幹にある考え方は概ね同じである。
「歴史とは現在と過去の絶え間ない会話である。」
これはこの本の中で度々繰り返される台詞である。どういうことか。
歴史は一度、歴史的価値があるとされたことがこの先ずっと価値を保つわけではない。歴史家が歴史を編むとき、様々な価値判断がくだされる。
まず事実がありその事実が歴史的に重要かどうかを見る。重要であればその事実が過去や未来の事実といかに関係しているかなどを整理していく。
歴史が時代とともに変化していく要因はここにある。価値判断を下し私たちにとって重要と判断されたものは、「今の私たち」にとって重要なのであり「過去の私たち」にとっては重要でないかもしれない。
歴史の変遷はダイレクトに私たちの価値観を反映する。いわば歴史とは価値観の鑑なのだ。歴史学が更新されなければ、今の価値観とそぐわない内容となり理解しがたい歴史観が築かれる。私たちが国家という枠組みの中で生きる限り国家の歴史を理解し受け止めることは必要だ。
例えば、韓国とは歴史問題を巡って対立が深刻化しているが、自国の歴史を知らなければ韓国側の歴史と擦り合わせながら理解するという異文化理解もままならない。グローバルな時代だからこそ自国の歴史を納得して理解し自分なりの歴史観を構築していかなければならないのだ。
歴史家はそのような営為を行う手助けをしてくれる。私たちが独自に歴史を構築しようと思ってもまず何千年という日本の歴史で起きた膨大な事実を整理できないし、過去の研究の蓄積も手元にない。初めにも述べたようにパラダイムシフトするためには『常識』がなければ出来ないのである。「歴史を理解する」ということと「歴史を独りよがりに整理する」ことは大きく違う。
歴史家が歴史的枠組みを構築し更新していき私たちは様々な形で新しい歴史観に触れていく。そうすることで私たちも現代に見合った歴史観を自分なりに理解する下地が出来上がるのだ。
歴史学などを抱える人文科学を切り捨てる政策を打ち出す文部科学省には正直失望している。自分たちの歴史観のみならず考え方を規定しているのは一体どのような人々なのか。私たちは一度人文科学に真剣に向き合った方がいいのかもしれない。
中山道中車輪栗毛5日目
令和の1日目は諏訪湖畔だった。
この日は中山道最強の敵を迎える。その最強の敵に会する前に安全を願いに行こう。
私が安全を願いに行ったのは諏訪大社。諏訪地方はおろか全国的に参拝客を集める日本でも有数の神社だ。
諏訪大社で道中の無事とこれから迎える大敵に打ち勝てるよう祈願した。
諏訪大社を出てその敵に向かう。
その敵の名は和田峠。縄文時代は黒曜石の産地として利用され江戸時代は中山道の通り道として人々に利用されていた。今でも諏訪地方から佐久や軽井沢の方に抜ける道として利用者の数は健在だ。
中山道では最も難所とされ江戸時代の旅人たちの中には和田峠で命を落としたものもいる。道が整備された今でも相変わらずの難所で10km弱ほど5%を超える勾配の坂道が続く。東海道でいうならば箱根峠の立ち位置である。
諏訪湖はもちろん諏訪地方では一番標高が低く出発地点から和田峠まではずっと上り坂である。
さすが一番の難所。今まで登ってきたどの中山道の峠よりも厳しい。登り始めて30分もすると心臓と肺が握りつぶされた感覚になる。何度か立ち止まり休憩を取りながら登っていると1時間半程度で頂上に到達した。標高1536m。最悪なことに頂上に着くやいなや雨に襲われ寒い。さっさと下ろうと思い旧和田峠トンネルを抜けて下山する。
雨風は弱まるどころか強まるばかり。この日は佐久まで行きたかったのだが、和田峠と寒さに体力を奪われ和田宿で留まることにした。和田宿で温泉につかり休憩所で6時間程度休憩した。
江戸時代の旅人の中にも和田峠を越え雨に晒され和田宿で泊まったものはいるだろう。当時の旅人に思いを馳せた1日である。
和田宿の夜はきのこオムライスだった。長野県はきのこの産地でもあり様々なきのこが入っていて美味しかった。
この日は28km/768mのアップ。
中山道中車輪栗毛4日目
バスの停留所であったため長居はしたくないと思い6時前に起床した。
1つ前の記事でも触れたようにこの日はとにかく眠りにつける環境ではなかった。犬の睡眠のように浅い睡眠であったが、意外と寝不足感はない。人は極限状態に追い込まれると変なスイッチが入るというのは本当の話である。
7時に福島関所へ向かう。雨の日ということもあり人は少なかった。昨日負った手のひらの傷がずきずきと痛むが気にしたところでどうしようもない。
福島関所は中山道の主要な関所の1つ。箱根関、新居関、碓氷関と並んで日本四大関所の1つでもある。江戸時代の主要な道といえば「入鉄砲に出女」であるが、福島関所は特に「出女」の取締りが厳しかったそうである。私は専門の必修科目でくずし字を読まなければならず、修行の成果を見せるときだと思ったが全く読めない。見せる相手もいないから構わないのだが。
福島関所で通行許可が下り先へ進める。
福島より日本海側はかなりの山道である。道こそはしっかりしているが集落という集落がほとんどない。「木曽川の源流」がある木祖村を抜けて今までずっと付き合ってきた木曽川と離れる。
福島から2時間弱で奈良井宿に着いた。この日は90%の雨予報だったのだが、奇跡的に持ちこたえている。私は曇り男で雨予報でも曇りか傘をさすか迷うほどの雨に変えてしまう。この日も存分に発揮した。
奈良井宿も規模の大きい宿場町である。今までの宿場町とは違い道幅も広く歩きやすい。しかし景観を守ろうとする徹底さは先の2つの宿場に負ける。車が出入りできる点も少し残念。
いい加減そば以外の食べ物に食らいつきたいと思ったが、なかなか見つからない。長野県の観光地にある飲食店は驚くほどに蕎麦だらけだ。美味しいが、何度も食べては飽きてしまう。結局、岩魚定食の店があったのでそこで食事をとった。
竹細工の店でキセルを買った。私は日頃は喫煙者でキセルは少し憧れであった。勿体なくてまだ使っていないが、覚悟ができれば使うつもりだ。
奈良井を出て最終目的地の諏訪湖へ向かう。
曇り男の力が弱り始めポツポツと雨が降り出した。奈良井から2時間弱で旅人を苦しめた峠の1つである塩尻峠の入口に着く。本格的に登る前に道の駅で休憩する。
なんとなく安曇野ヨーグルトを買ったのだが、このヨーグルトが今まで食べたどのヨーグルトよりも美味しい。長野県の諏訪方面に出かける予定があれば買ってみてほしい。
雨で体が濡れとにかく寒い。体を温めるためにも早く出よう。
塩尻峠はそこまで苦しくない。確かに距離は長いのだが、そのぶん勾配がそこまで急ではないのだ。塩尻峠を登ってしばらくすると「高ボッチ高原入り口」という標識が見えた。そう、高ボッチ高原といえば「ゆるキャン△」の聖地である。あいにくの天気で登ることは叶わなかったが、塩尻峠までの道は志摩リンが見た景色。全身がたぎる。
塩尻峠の頂上に着いた。標高約1100m。頂上は高ボッチ高原ほどではないが諏訪湖を一望できる。志摩リンが見た光景と似ていた。
あとは下るだけである。塩尻峠のダウンヒルはとても心地が良い。眺望が開けており諏訪湖を一望しながら下れるのである。温まった体にも少し冷えた風が心地良い。
ダウンヒルの時間はあっという間に過ぎる。下諏訪まで移動した。明日は和田峠にアタックするのでなるべく近付きたかったのだ。
何気にこの日は平成最後の日であった。
カナディアンロッキーという諏訪地方では有名なステーキハウスでステーキを堪能し下諏訪温泉でくつろいだ。自分の中では限りない贅沢である。
諏訪湖畔で眠りについた。この日は平和な夜であった。
64km/735mのアップ。
「陰キャラ」論
「俺は当然陰キャなので✋」
「陽キャ怖い😭」
ツイッターのタイムラインを見ていると流れるツイートである。
このツイートには「自分は陰キャラだから○○をしない」、「陽キャラとされる相手は自分と相容れない存在だから苦手なタイプだろう」という意図がある。
生物学的に「オス/メス」の区別があるのと同じように社会では「陽キャ/陰キャ」という区別があるようである。そして「オス/メス」の区別と「陽キャ/陰キャ」の区別には決定的な違いがある。それは後者の区別において「陰キャラ」は蔑まれる言葉であり、いわば差別用語のようなニュアンスを持つということである。
陽キャラの主な特徴は
1.容姿が優れている
2.性格が明るく開放的、誰にも怖気づくことなく接することができる
3.コミュニケーション能力が高い
一方陰キャラの特徴は
1.容姿が薄汚い
2.内向的、基本見知らぬ人に対して恐怖を抱く。一方で心を開いた相手には徹底的に話す。
3.コミュニケーション能力が低い
陰キャラが蔑まれるのは仕方がない話である。なんせ今の時代はコミュニケーション能力が必要とされる時代。そうした価値観に日本全国が支配されている時代において陰キャラの社会からの需要は陽キャラには負けるだろう。
冒頭のツイートの例で示したように、「陰キャラだから行動に移したら違和感があること」というのが世の中にはあるらしい。そして「陰キャラと陽キャラ」は相容れない存在らしい。
そして「陰キャラだから行動に移すと違和感があること」を陰キャラが行動に移すと周りから叩かれる傾向がある。「陰キャラのくせに」、「陰キャラが調子に乗ってる」。こうした言説が毎日ネット上を飛び交う。
一度「陰キャラ」の烙印を押されるとあらゆる行動に対して実質的な制約を受ける。陽キャラだけでなく陰キャラ自身も他の陰キャラの行動に目を光らせて足の引っ張りあいをしている。その光景はジョージオーウェルの小説『1984』に描かれたディストピアさながらである。
ところでラベリング理論というものを聞いたことがあるだろうか。社会学者ベッカーによって提唱された理論で
「その人の特性はその人自身の行動というよりも他者から貼られたレッテルによって形成されていく。そして一度貼られたレッテルをもとに自身の行動パターンとアイデンティティを形成していく。」
というものである。
これは犯罪学に関する理論であるが、それをそのまま「陽キャラ/陰キャラ」の話に適用すると陰キャラは自身の行動というよりも人から「陰キャラ」といわれることによって自身の行動の幅を狭めているということになる。
「陰キャラ」というラベリングによって見えなくなったことは確かに、そして大量に存在していると思う。例えば「陽キャラばかりだから行かなかったイベント」、そして「陽キャラだから付き合ってこなかった人々」。そういうものの中にも実際関わってみれば楽しく世界の幅を広げてくれるものがあるに違いない。
あえて呼ぼう。私を含めた「陰キャラ」の人たち、本当に現状で満足しているのだろうか?いつも陽キャラから馬鹿にされそして陽キャラに恐怖を抱く日々から抜け出したくはないだろうか?ルサンチマンに満ち溢れた日常から卒業したくはないだろうか?
人から「陰キャラ」と呼ばれることに甘んじているだけでは今の閉塞的な状況は何も変わらないのである。
中山道中車輪栗毛3日目 part2
男滝女滝からずっと下ること10分くらいで妻籠に着いた。
妻籠はとにかく規模の大きい宿場町。景観の徹底の仕方は3つの宿場の中で1番だった。いざ妻籠に入ると時代劇の世界に迷い込んだかのよう。細工の店や蕎麦、五平餅の店が並びずっと妻籠にいても飽きない。
妻籠宿を出てしばらくするとすぐに謎の大きな木製の橋と遭遇する。この木製の橋は「桃介橋」といわれる橋で福沢桃介がダムを作った痕跡の1つである。近くに読書ダムというダムがあるのだが、そのダムを作る時に資材を運ぶトロッコを通すものとして作られたようである。
桃介橋を後にしてすぐトラブルが発生する。
なんと車輪が木のツルと絡み大胆に落車してしまったのである。幸い荷物にはなんの被害もなかったが、右手をひどく怪我し血まみれになった。備えが甘く絆創膏を持っていなかったのでしばらくそのまま走った。
その怪我がきっかけで走る気力がなくなり、自分でもどうして中山道を自転車で走り抜こうかと思ったのかと責めた。
しかし途中のセブンイレブンに寄ったときである。気分転換に甘いものを食べようと買い物するとレジのおばちゃんがもう血が止まって痛々しさだけが残る私の手を見て案じ、店の商品を使って看病してくれたのである。
世の中にはいい人もいるものだと少し気力が復活した。
ぶつぶつと言ったところでどうしようもない文句を言いながら走っていると寝覚の床に到着。
寝覚の床は珍しい渓谷である。柱状節理の岩がところ狭しと並び異様な光景を見せるのだ。そして寝覚の床には有名な伝承がある。浦島太郎が玉手箱を開けた場所が寝覚の床というのだ。写真ではわかりにくいが、2枚目の写真の手前に見える大きな石が亀に見え、その石を亀石というらしい。詳しくは忘れたが、確かそれも浦島伝説と関係のある石だった記憶がある。
寝覚の床を出た頃、時刻はもう18時を過ぎていた。私の場合、自転車旅における宿泊地の条件が「①温泉/銭湯があること ②公園や空き地があること」なのだが、この条件を満たす場所が木曽福島しかない。
とにかく木曽福島まで急ぐ。寝覚の床から木曽福島まで3分の2くらいの地点で完全に日が落ちあたりが暗くなった。町ではなく山道。暗い山道を1人で走ることがこんなにも寂しいことだとは思わなかった。今にも泣きたい気持ちを堪え走っていると急に街明かりが見えた。その時は1人であったが「町や!町の明かりが見える!」と叫んだ記憶がある。
木曽福島で温泉に入り適当に夜ご飯を済ませたあと、地元の方と話していると「今晩は雨が降るから今日は空き地よりもそこのバス停で寝たほうがいいよ」との助言を受けた。確かに雨は強まるばかりだ。そして雨のせいでゴールデンウィークとは思えないくらい寒かった。深夜0時の時点で7℃。そもそも福島一帯が標高800mくらいなので元々寒い。
しかも夜の3時くらいに突如空襲警報のような音が鳴り響いた。川の増水を知らせダムの放水を知らせるアラームらしい。
寒いのとうるさいのとでまったく寝付けなかった。明日は塩尻峠を迎える。早く寝よう。
この日は72.8km/1490mのアップ。
中山道中車輪栗毛3日目 part1
この日は奈良井宿の付近まで走ろうと早起きするつもりだったのだが敢えなく絶起。程々の地点で泊まろう。
昨日の脚の痛みなど嘘だったかの如く体にはどこも違和感がない。ぐっすり睡眠を取り体調は万全。
3日目で最初に悩んだこと。それは「恵那峡、上から見るか下から見るか」。2日目に恵那峡を下から眺めたのだが、上からも眺めたい。結局上から眺めることにし少し多めに漕ぐことにした。
しかしここで問題が起きた。
私は自転車の案内アプリとして自転車ナビタイムを使っている。ナビ通りに従って進んでいたのだが行き止まりにぶつかった。どうやらかつてはここの行き止まり地点に橋がかかっていたようだ。
自転車ナビタイムからグーグルマップに切り替え別の道を探す。どうやら自転車ナビタイムは地方の道に関しては弱いらしい。世界を股にかけたグーグルは日本の細かい道まで、一体どうやって情報を仕入れているのか非常に不思議である。
少し道に苦労しながらなんとか恵那峡展望台に到着した。
恵那峡は木曽川の一部である。今でこそダム湖が完成したことで穏やかな流れが形成されているがかつては木曽川の荒々しさが人々を悩ませた。明治時代、その水力を活かす目的で福沢桃介という人物がダムを作り水力発電所を建設した。それがきっかけで東海地方屈指の景勝地へと発展した。福沢桃介は木曽川流域一帯にダムを作り様々な形でその痕跡を残している。
人が手を加えたことで美しい峡谷が作り出されたと考えると「自然とはなにか?」と考えさせられてしまう。
次の目的地である馬籠宿に向かう途中「落合の石畳」を通る。「落合の石畳」も十三峠と同様、江戸時代からそのままの状態で保存された区間がある。パンクに細心の注意を払いながらひたすらに進む。
落合の石畳を過ぎてしばらくするともう馬籠宿。
馬籠宿は中山道の宿場の1つ。古い町並みが今も残る。中山道には観光地として有名な宿場が3つある。1つは馬籠宿、残り2つが妻籠宿と奈良井宿だ。その3つの宿場のうち最も「美しい」と思えた場所が馬籠宿である。理由は単純。それは山の景色と古い町並みが見事な調和を見せてくれるからだ。
ずっと坂が続き坂の両脇に日本家屋が立ち並ぶ。江戸時代の人々はかなりの健脚だったのだろう。「よくこんな場所に宿場を作るよな」と関心した。
馬籠宿は人が多いもののどこか落ち着いた雰囲気がある。日本昔ながらの町並みは本能的にノスタルジーを感じているのか、とても居心地が良い。
しかし私は寝坊したことを忘れていなかった。早々に馬籠宿をでる。
馬籠宿を出るとき道に迷った。どうやら馬籠宿から妻籠宿へ行こうとするには馬籠宿のメインストリートを通り抜けなければならないらしい。サイドバックをつけた自転車を引っ張り馬籠宿を通り抜けたのだが、周りが奇怪な目を私に向けているのが肌で感じられ少々恥ずかしい思いをした。普通のママチャリが乗用車とすればサイドバック付きのロードバイクなど重戦車のように思えたに違いない。
馬籠宿を抜けたのはいいが、今度は馬籠峠が待っている。馬籠峠まで自転車を漕いでいると妻籠宿まで徒歩で向かう人々に「頑張って!」と声をかけられた。お互い様である。
馬籠峠まで登ると妻籠まではもう下るだけ。その前に男滝女滝に寄る。
小さい可愛らしい滝だが、古くから信仰を集めた滝であるそうだ。
私は川や滝へ行きスローシャッターで水の流れを線のごとく写した写真が大好きである。水の躍動感をあえて殺すのだ。
3日目は寄りたいところが多く書くべきこともたくさんある。一度ここで区切ろうと思う。