頭の上の蝿を追え

しがない某京大生が日常を綴る

人生に絶望する理由

私はこの頃自分の人生に絶望している。
別にお先真っ暗というわけではない。
腐っても京大生。就活に最大限失敗したとしても食っていける仕事は見つかるだろう。
そして私には仲良くしてくれる友達もたくさんではないがいる。バイトも卒なくこなし単位も卒業に間に合う程度には取得している。サークルも入り自分の趣味に打ち込む時間だってある。色んな経験もしてきた。
そう、私は正直にいえば大学生という枠組みでみるととても恵まれている部類に入るのだ。

ではそんな私が人生における何に絶望を感じているか。それは結婚である。
今のところ、私は誰かと結婚をして幸せな家庭を築きゆったりとした老後を送って死にたい。確かに結婚は面倒かもしれないが得られるものだってあると思う。こんな陳腐なことを言いたくはないが人生において愛というものは必要である。愛がなければどこか心に空いた穴が埋まらない感覚になる。
そして愛は人生の中でお金で買えない唯一のものといってもいいかもしれない。マスターカードは間違えている。だが簡単に手に入る代物じゃないからこそ得る価値はある。

どうしてこんなことを急に言い出したのか。私は大学1回生の頃、自分の個性について悩んだ。その悩みは「生きる意味」を考えるまでに至った。しかし、友人の誘いもあって大学2回生から様々なことを体験した。その中で「自分」というものがぼんやりと浮かぶようになりある程度掴めた。そしてそんな「自分」を好きになった。

そんな状態がずっと続き自己肯定感は非常に高まった。だが近頃また状況が変化した。
「人生はRPGだ」というのは本当に上手い例えだと思う。【「自分」を好きになる】というミッションが達成されると今度は【好きな人を見つけろ】というミッションが課された気がするのである。

しかしこれはそううまくはいかない。「自分を好きになる」というのはあくまでも自分の問題である。最悪1人で自分なりに悩み解決することもできる。要は他人の干渉具合が少ないのだ。
しかし「好きな人を見つける」こと、これはそうはいかない。当たり前だが恋愛はお互いを尊重して成り立つもの。そして出会わなければ恋愛なんて始まりもしないがその出会いにだって数に限りがある。急に難易度が高まった。

さらに恋愛ミッションのダメなところは偶然性に左右されすぎることだ。産まれた時に得たアイテムにとても左右される。


私が絶望している点はここである。


恋愛において内面はもちろん大事だがまず第一印象がよくなければ中身が見られることなんてまずない。
センター試験のようなものである。センター試験で良い点を取り足切りに合格したもののみが2次試験を受けることができる。
私はまずそのセンター試験が4割くらいしか取れない。
「恋愛において顔なんて関係ないよ」とかいう無責任なことを言う人は本当にダメだ。全世界の魅力のない外見の人を勘違いさせ変に期待を抱かせる元凶だ。

恋愛において性的魅力は欠かせない。小学生の恋愛ならまだしも大人の恋愛に性行為は必ず伴う。その性的魅力は外見に大きく左右される。身長、ルックス、骨格はその要素の大部分を占める。
私はそのどれも満たしていない。オスとしての魅力がない。私が女だとしても私みたいなやつと絶対に「ヤリ」たくない。求愛行為に失敗した鳥なんて自分に重ねてしまって見てられない。
だから私は人生に絶望している。これから得る見込みのないもの(=愛)に憧れを抱きながら棺桶に入ろうと思う。

こんな記事を書いていたら目の前をゴキブリが通った。泣きっ面に蜂とはまさにこのこと。ゴキブリにまで嘲笑される無様な人生である。

ヤバイTシャツ屋さん

私はひねくれた性格ということもあって流行りものが大嫌いである。なんでもまずは疑ってかかってしまう。ヤバイTシャツ屋さんもその例に漏れなかった。

ヤバイTシャツ屋さんを一躍有名にした曲はやはり「あつまれ!パーティーピーポー」だろう。最初にこの曲を聴いた時の印象は今も忘れられない。

https://www.youtube.com/watch?v=J5oytYDMWHA


ヤバイTシャツ屋さん - 「あつまれ!パーティーピーポー」Music Video[メジャー版]

「なんだこのパリピ御用達の曲は!こんな騒ぎ方、とてもじゃないが俺にはできない!」

曲の感想として「怖い」が真っ先に出てきたことはおそらくこれが最初で最後だろう。この曲自体は怖くない。むしろキャッチーでかっこいい。怖かったのはこの曲の背景に想定される人たちである。パリピ陽キャ。私たち陰キャの敵である。

 

しかし冒頭の「しゃっ!しゃっ!しゃっ!」の部分が頭からずっと離れない。そして「しゃっ!しゃっ!しゃっ!」が聴きたくてまたPVを見てしまう。ついには音楽アプリのプレイリストに追加するまでになった。

もうこうなってしまえばファンまで一歩手前である。

 

そしてヤバTに心をつかまれる一番のきっかけになる曲と出会ってしまう。

それは「喜志駅周辺なんもない」である。私は喜志駅の付近に住んでいていつも喜志駅を見ながら大学まで通っている。


【LIVE】ヤバイTシャツ屋さん - 「喜志駅周辺なんもない」

「わかるわかる!天王寺まで400円はイタい!喜志駅周辺なんもない!」

そして近鉄南大阪線河堀口駅手前から見ると「あべのハルカスめっちゃ高い」のである。もう地元をテーマにされてしまうとノックダウン。ゴングが鳴り響いた。

そして何よりベースボーカルのしばたありぼぼが可愛い。完璧な可愛さはないが程よくかわいいのである。ルックスだけではない。声もかわいい。朝、学校やバイトに向かうときに聴くしばたありぼぼの声は私を勇気づけ幸せにしてくれる。

 

もっというとヤバTの歌詞は内容がペラペラである。何を言っているかわからないほど歌詞に意味がない。


ヤバイTシャツ屋さん - 「肩 have a good day -2018 ver.-」Music Video

この曲なんて相当ひどい。肩幅が広い人に対する偏見を約3分程度犠牲にしてずっと歌っている。真面目に聴いていた私の時間を返してほしいくらいである。だがその時間の無駄遣い感がとても心地よい。「真面目にバカをやっている」をここまで示してくれた存在は今までなかった。いつしか私は憧憬の眼差しでヤバTを見るようになっていた。

 

私がヤバTにハマるまでの経緯なんてどうでもいい。

これから先は私がヤバTの歌詞から思ったことを綴る。素人が音楽を語ることに抵抗のある人は見ないでほしい。私が恥ずかしい。

ではどうしてヤバTがここまで下らない曲を一生懸命に歌っているのか。考えてみたことはあるだろうか。

「彼らが好きで歌ってるんじゃないの」

私はずっとそう思っていた。くだらない曲を一生懸命に歌うことに一種のユーモアを見出している。おそらくそれは理由の一つだろう。

しかし私はある曲を聴いてからヤバTの見方が変わった。


ヤバイTシャツ屋さん - 「ヤバみ」Music Video

「ヤバみ」はヤバTの楽曲の中でも彼ら独自のメッセージをわかりやすく盛り込んだ曲だと思っている。その部分を以下に抜粋しよう。

「本当に言いたいもんなんて 本当は伝わらないもんね」

「『歌詞に意味がないと!』『説得力がない!』

もうそんな時代じゃない!? 『理解できないものばっかり流行ってく』

いつまで置いてかれちゃってんの」

歌詞に意味がなければだめだ。説得力のある歌詞でないとだめだ。こう思っている人は多い。しかし本当にアーティストのメッセージを私たち視聴者が汲み取れているのか。おそらく汲み取れていないだろう。そんな状況ではアーティスト側も音楽にメッセージを込めるのが馬鹿らしくなってくる。

そして次の曲で「ヤバみ」の歌詞をさらに掘り下げたように見えた。


ヤバイTシャツ屋さん - 「鬼POP激キャッチー最強ハイパーウルトラミュージック」Music Video

特に印象的なのは以下の部分である。

「無料サイト 動画サイト 違法アプリで音楽垂れ流し

もうCDに価値はないんか もはやバンドはTシャツ屋さん

伝えられへん方が悪いんか 聞き流すのが悪いんか

いつかヤバみな深みに気づいてくれるなら それでええ 待ちます

視聴者側の姿勢に対するメッセージ。伝えられヘん方(アーティスト)が悪いのか聞き流す(視聴者側)のが悪いのか。今の日本の音楽業界を取り囲む状況では「歌詞に意味を持たせても意味がない」。それが彼らの言いたいことのように思えてしまう。

「だったらキャッチーでノリのいい曲を作って気持ちよくしようじゃないか。」

彼らの思想が垣間見える気がするのである。

ヤバTは彼らの思想を自分の身をもってして表現しようとしている。そしていつか日本の音楽業界が変わる日を待っているのだろう。

ヤバTにはこれからも日本人アーティストの一種のアンチテーゼとしてこれからも意味のわからない曲を作り続けてほしい。

人とおるときにバリ携帯触るやつ

「また触ってる…。」
「そんなに俺の話おもんない…?」
「俺より携帯が大事…?」
これは私と一緒に何かしてるときに携帯を触る人に対して発生する感情である。

先に断っておくが別に私はメンヘラではない。
私はセカンド童貞のようなもので今後しばらく彼女ができる見込みも能力もない。
しかし私に彼女が出来ても彼女を束縛するつもりもなければ他の男がいる遊びの予定を止めることもない。
でも人といるときに携帯を触る人に対してはどうしてもそう思ってしまう。

別に全く使わないでほしいというわけではない。道順を調べたり話が落ち着いたときにLINEやインスタを確認する。これくらいは誰でもする。
ただ私が許せないのは食事中に触る人や私が話しかけている、あるいは会話しているにも関わらず頑なに携帯を触るような人である。
そういう人に限って話の内容が耳から抜けていて
「ん?なに?もう一回言って?」
あるいは
「そういえばさ、○○やねんけどさ…」
である。

私はそういう人に問いたい。
「なんで俺を誘った?」
関心ごとが私といるというイベントではなく画面の向こうで起きている出来事なら私を誘わなくてもいい。一人でやれ。相手が携帯と対話しているとき、私はその空間から疎外されている。
友達といるのにどこか寂しい思いをする。

会話というものはお互いがあって成り立つものである。相手が話したい内容もあれば私にだって話したい内容はある。それぞれの話題テーマが違う中で会話するからこそ新しい世界も開けるし楽しい。

私の偏見であるが、人といるときに携帯を触る人はこちら側の話をあまり聞かない。そういう相手と話をしてこちら側がちゃんと話を聞くことにどこか不平等さを感じる。「なんで俺だけが相手の話聞かなあかんねん」と思ってしまう。こっちだって聞いてほしい話、同意してほしい話はあるのだ。

「コミュ障」という言葉は自分をさげすむ言葉として丁度良く人気がある。一般的なコミュ障は「おじおじして相手と会話できない」人のことを指すと思うが、私は人といるときに携帯ばかり触る人も一種のコミュ障だと思っている。なぜならその瞬間、会話のキャッチボールができていない。

残念ながら人といるときに携帯ばかり触る人はよくいる。だからこそ私は、私といるときでも私の話をちゃんと聞いてくれる友達が貴重だと思うし大事にしたい。


ちなみにタイトル名はヤバTの曲名にありそうな感じを意識した。

遅刻について申し開く

私はよく遅刻をする。友達との予定であってもバイト先のシフトであっても。大事な予定で遅刻をし怒られて気に入っていた服を破られたこともある。

遅刻といっても私の遅刻はバリュエーションに富んでいる。
1位:寝坊
定番だろう。学生なら寝坊はつきものだ。アラームをかけても気付かないことだって多々ある。
2位:時間の勘違い
LINEで○○時集合ね!って言われしっかり既読をつけた上でしっかり時間を間違える。
3位:家での準備がのんびり
私は実家にいるときは朝や昼、どんな時間に起床してもコーヒー1杯とパンを食べる。そして玄関に出て一服し至福の時間を楽しむ。慌てるべき時でも生理的欲求には勝てない。そうやって電車に乗り遅れる。
4位以下は、乗り換えを間違える、電車で寝過ごす、目的地で迷う、井戸端会議に夢中になるなどである。

「遅刻をしてはいけない」
そんなことは重々承知している。しかしこうも要因が多岐に渡ると簡単に対策を練らしてくれない。1つの要因を潰したと思っても私の前にはまた別のハードルが立ちふさがることだって日常茶飯事。

そして私は中学生の頃から決めていることがある。それは遅刻しても急がないということだ。
仮に遅刻して急いだとしよう。でも急いだって電車やバスが急いでくれることはない。ダイヤは決まっている。走るにしても微々たる時間しか生まれない。
だから私は遅刻したときは逆に堂々と扉を開ける。そして謝れそうなタイミングを見計らって一言「ごめん!」と添える。
ここまで書くと私が嫌な奴に見えるだろう。でも遅刻したくてしてるわけではないし間に合うに越したことはない。第一相手を待たせている。顔に表れていなくても申し訳ない気持ちで溢れているのである。

そして遅刻を繰り返すようになって私は他の人にない武器を手に入れた。
それは「寛容さ」である。私がよく遅刻するものだから相手が遅刻しても責めることができない。そんな時はかえって余暇が出来たと前向きに捉える。そして喫茶店に行き読書にふけったりポケモンに興じたりする。そんな一人の時間も楽しいもの。

今の日本人はいつもなにかせかせかしている。だからみんなも遅刻すればいい。
「この子、レポートの提出期間に遅れて出したなぁ。でも俺も遅刻するし受理してやるか。」
なんと平和なことか。
日本人全員、いや世界のみんなが遅刻すれば私みたいに心に余裕を持って日々を過ごせるだろう。
私は遅刻フレンズが増える日を心待ちにしている。