頭の上の蝿を追え

しがない某京大生が日常を綴る

『旅』と『旅行』の違い

 

旅(たび)

住んでいる所を離れて、よその土地を訪ねること。旅行。

旅行(りょこう)

家を離れて他の土地へ行くこと。旅をすること。たび。

[どちらも『大辞泉』からの引用]

 

旅と旅行。辞書的な意味は同じである。

しかし、私にはこの2つの言葉の意味に微妙なニュアンスの違いがあると思われる。

例えば、コロケーションの問題がある。

「一人旅」とはいうが「一人旅行」というと少し違和感がある。また「自転車旅」と「自転車旅行」。前者は自転車をメインに広い地域を巡っている光景が浮かぶ。しかし後者は特定のある小さな範囲をレンタルサイクルで巡っている印象を持つ。

正直、個々人の感覚の問題である。だが、日本語はそうした些細な印象を大事にする言語である。だからこそ『旅』と『旅行』の違いを明確にしたいのである。

では『旅』と『旅行』にどういう線引きをするか。私はその二者に「情」という概念を持ち込みたい。

私は『旅』に相当するものも『旅行』に相当するものもどちらもよく親しんできた。だからこそわかる感覚がある。

【住みなれたわが家に わが座布団は敷いてあっても 上機嫌にどさっと膝をつく気には ほど遠い座布団だった。 しかもそれは行くまえまでは 親しい座り場所であり 帰ったいまもいくまえと 寸分ちがわぬへやのなか、 ものの位置なのに 旅がえりのものは はじかれているような 気がさせられた。 寂しかった。】

これは幸田文「旅がへり」の一節である。昭和32年に書かれた文章であり今とは全く状況が異なるはずであるが、面白いと思ったので引用した。

私は自転車旅をよくしているが、自転車旅は非常に「情」を誘発するものである。

今、まさに私は東北を自転車旅で巡っている。自転車旅をしているとその土地の方々から励ましの声を受けたり時には差し入れを頂くこともある。ある日は海岸でのんびりしているとコンビニのおにぎりを頂いたり、ある日にはりんごを頂いたこともあった。

そして自転車で走っていると自動車よりものんびりと時間が流れる。そのぶん、その土地の景観を楽しみ浸る時間が増える。ゆっくりと走ることで見える景色もあるのだ。

そうした精神的、身体的経験が積もり重なり巡った土地には自動車で巡る『旅行』よりも思い入れが強くなることが多い。今の話でいうなら、自動車で走っていたらわざわざ「深浦」という小さな港町に目を向けることはなかっただろう。

その土地を噛みしめその土地に住む人と触れ合う。この程度の差に『旅』と『旅行』の大きな違いがあるのかもしれない。

『旅行』は手間がかからず気軽にできるため好きである。一方、『旅』は体力的にも厳しい上に準備にも手間がかかるから面倒くさい。しかし、『旅』は一つ一つの味が濃いから辞めることができない。

そしてそのような味の濃い日々を過ごしてから帰る実家のある風景はどこか違ったものに見える。旅先の土地に生きる人に物語があるように、私が住む土地に生きる人にも物語があるのではないか。そして私がいぬ間に実家にも同じように時間が流れ、お互い私が出かける前とは少し違う人になっているのではいか。そうした思いが知らぬうちに錯綜し旧知の仲であっても最初は少し距離感が掴めずにもどかしい気持ちになってしまう。

これが「旅がへり」の寂しい気持ちの正体かもしれない。

それでも『旅』は楽しい。麻薬のようにハマっていく。今後も辞められそうにない。

また行く先を決めよう。

中山道中車輪栗毛8日目

友人に別れを告げ東京までの旅路に戻る。

高崎まで来れば東京まであと一歩だ。フィールドは関東平野。「峠」という敵はいない。

深谷で一度昼飯を取った。やたらと「渋沢栄一が愛した」というフレーズが並ぶ。後々知ったが、渋沢栄一深谷出身らしい。丁度、新札の肖像画が発表された頃。渋沢栄一で町おこししようと頑張っているのだろう。彼が愛したというほうとうを食べ心を入れ替える。

埼玉は東京のベッドタウンということもあって普通の街並みがずっと並ぶ。正直、埼玉は走っていても楽しくなかった。地元である大阪を走っているのとなんら変わりがなかったからである。

そう思いながら走っているとバチがあたった。さいたま市内に入ったあたりから大雨に襲われたのである。コンビニで雨雲レーダーとにらめっこしているとどうやら私は雨雲と水分の含まない雲との境目にいたらしい。全速力で走り雨雲とおいかかけっこをしていると雨雲を切り抜けることができた。東京に入る頃にはただの曇り空に変わった。ロードバイクなら雨雲に勝てるようである。

東京からは特に物語はない。板橋、巣鴨と順調に抜け午後5時にはゴールの日本橋に到着した。

東京に行く目的はただ中山道を走る抜けるということだけではない。かつて仲良くしていたが東京に行ってしまった友人たちに会うためでもある。

目的をもって京都大学に入学したが、大学で結論を見出し大学をやめた子。その子は今、東京で将来の夢に向けて頑張っていた。

彼が会ってすぐに放った言葉は「きったな!ホームレスより汚いで!」。しばらく彼とは会っていなかったが、いかにも彼らしい迎え方である。歌舞伎町の居酒屋で京都にいた頃の思い出話や彼の近況で話を咲かせた。

浪人して東京大学を目指していたが、残念ながら不合格となり早稲田大学に入学した子。その子は早稲田大学の学生として学生生活を楽しんでいた。

「いや俺さぁ、今浮気してるんやけどさ。」

浪人の頃から危ない予感はしていたが、東京でしっかりと「彼らしさ」を発揮していたようである。浮気は頂けないが、ある意味で安心もした。

次の日の新幹線で京都まで戻った。

京都から東京まで1週間かけて辿り東京から京都までは2時間半。煙草を燻らしながら車窓を眺め1週間わずかの旅の思い出に耽った。

さて残金500円。給料日まであと15日ほどあるがいかにして過ごそうか。

 

中山道中車輪栗毛7日間。

総走行距離558.7km/5337mのアップ。

中山道中車輪栗毛7日目

この日は1度自転車を置いた。

昨日、再会を果たした高校の頃の友人と群馬県を案内してもらったのだ。

栃木県の名所は多くは浮かばないが、浮かぶには浮かぶ。日光、華厳の滝那須高原…。

しかし、群馬県も負けず劣らず自然に溢れた風光明媚な場所があることを思い知らされた。

最初に訪れたのは榛名山

自転車乗りなら一度は聞いたことがあると思う。ヒルクライムの聖地だ。実際、榛名山に行くとヒルクライムの苦労に値する景色が広がっていた。

奥に見える山稜が美しく魂が抜ける。この写真に写ってはいないが、左側の山は雪化粧をしていた。山桜と雪が織りなすコントラストの世界はやはり美しいものだ。

榛名山から車でしばらく下ると伊香保に着く。

伊香保は温泉で有名だが、近くには伊香保グリーン牧場がありこの牧場が結構面白い。

あまり牧場に行った経験がなかったため、ありとあらゆることが新鮮だった。

牧場にいる動物は可愛いもので中にはおっさんのような動物もいたが、それでも動物だから許せてしまう。

羊はみんな「メェ〜」と鳴くものだと思っていたが、鳴き方にもそれぞれ個性がある。

鳴き方のイデアのごとき鳴き方をする羊ももちろん存在するが、「めぇー」と棒読みする羊もいて羊の鳴き方の観察をするだけでも時間が溶けてしまう。

伊香保に行ったからには温泉にもよる。

やはりゴールデンウィークのど真ん中ということもあってか伊香保温泉の人口密度は凄まじいものだった。車を停めようとしても駐車場がない。結局、温泉に入るのは諦め足湯で体験させていただいたが、それでも今まで脚を酷使してきたことを考えればありがたいものだ。

温泉街独特の雰囲気はわくわくする。伊香保温泉も人をわくわくさせる力を持つ温泉だが、人が多すぎるとやはり風情が薄れてしまう。

次は人が少ないときに訪れたいものである。

中山道中車輪栗毛6日目

普段は朝をのんびりと迎える私もこの日は忙しい朝を過ごした。なんといっても昨日は28kmしか進んでいない。早いうちに長野県を抜けないと学校が始まるまでに京都に戻れない。

朝の6時過ぎに和田宿を出て佐久まで向かう。佐久への道中でも途中、笠取峠を越えた。昨日のことを思えば軽いものだ。そしてその峠を越えてしばらくすると太陽が顔を出した。実は中山道に入ってから一度も晴れ間を見ていなかった。太陽には不思議なエネルギーがあって人は太陽を見ると元気になる。私もテンションが上がり、あいみょんマリーゴールドを口ずさみながら道を走った。

笠取峠を越えたら佐久まではほとんど下り道か平坦な道。

佐久に着くと一度自転車を駅の駐輪場に置く。中山道を離れ上田に向かう。

上田は真田昌幸が築き上げた名城、上田城の跡がある。「真田丸」を見た私にとって近くを通るならば是非と思っていたのだ。

上田城に真面目に触れるのは今回が初めてである。博物館の展示を見ていたが、上田城は本当によくできていると感心した。現在は影も形もないが、築城当時は上田城の周りを川が流れていた。その川が自然の要害となり敵の侵攻を阻む。

さらに上田城の城下町はあえて入り組ませてあった。その複雑さゆえに敵は隊列を小さく組んで進むしかない上にいざとなれば城下町に火をつければ敵軍に大きな混乱を与えることができる。

上田合戦は2度行われたが、約2千の真田兵で約4万の徳川軍を撃退した第2次上田合戦は特に有名だ。撃退できた秘訣の一部を垣間見ることができた気がした。

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真田神社で残りわずかとなった道中の安全を願う。上田城を出たときどこか武運が身についた気がした。

佐久に戻り再び中山道を行く。

佐久から軽井沢まで再び上り坂だ。軽井沢までの道はそこまで険しくなく簡単に軽井沢に着いた。今でこそ軽井沢は関東方面の避暑地として名高いが、江戸時代には宿場が置かれていた。

軽井沢など訪れたことがなく何があるのか楽しみであった。

軽井沢の地に足を踏み入れる。しかしどこも高くて買えそうなものがない。私は自転車で貧乏旅をしているものである。そんな私にとってはどれも手が出ないものばかりだった。仕方なく観光だけしていく。

軽井沢は明治時代にカナダ人牧師のアレキサンダー・クロフト・ショーが別荘地として開拓したことで現在の地位を手に入れることができた。軽井沢の光景がスコットランドの自然地帯に似ていたらしい。

下は当時のショーの別荘を復元したショーハウス記念館。現在も現役の教会である。

下は雲場池雲場池の周りにはこぞって別荘が立ち並び、別荘に訪れた人が散歩するにはうってつけの場所なのだろう。

この日は高崎まで行かなければならなかったので軽井沢に長居もできない。

軽井沢を出るとすぐに群馬県との境に入る。そして群馬県に入るとともに碓氷峠を超える。碓氷峠は片峠といって峠の片側だけが急な坂道となっている。軽井沢から高崎まではずっとダウンヒルだ。しかし碓氷峠はカーブが多くなかなか思い通りにダウンヒルできない。

碓氷峠群馬県と長野県を結ぶ主要な峠であり古くから交通の要衝であった。明治時代、もっと早く群馬長野間を結びために碓井峠鉄道を開通させた。その後別の長野新幹線の開通によって東京長野間を短時間で移動できるようになり、碓氷峠鉄道の重要性は低下した。そして廃業となったのだが、その碓氷峠鉄道の跡が碓氷峠には残っている。

下は眼鏡橋で知られる橋梁。かつてはこの橋を鉄道が通っていた。

碓氷峠を下ると碓氷関所跡が見える。箱根関所、福島関所、新居関所はしっかりと観光資源化していたのに碓氷関所はどこか残念。

このまま高崎まで向かう。どうして高崎に向かわなければならないのか。それは高校時代の友人が高崎に住んでいてその家に泊めてもらうことになっていたからだ。約5日ぶりに知り合いと会う楽しみに心躍らされながら高崎に向かった。

友達と会うや否や「おつかれ」といわれるわけでもなく「きたな!」と言われた。そんな私を泊めてくれる友人に感謝である。

この日は95km/848mのアップ。

 



 

歴史学を学ぶ

文部科学省は積極的な学問改革を進めている。

研究成果がわかりやすく何かしらの産業に応用しやすい分野に投資しそれ以外の学問分野への投資を減らす。

その方針について著名な研究者からは批判が集まり物議を醸した。ちょうど、本庶佑先生がノーベル賞を受賞した頃にそうした文部科学省の方針に関心が向き、先生は「成果の出にくい基礎研究が最も大事。」という主旨のコメントを出し多くの共感を呼んだ。

それはどんな学問でも同じである。急にコペルニクス的転回が起きるわけはなく、様々な下積みがありその末に常識破りの発見がある。東南アジアの映像からその地域の文化を分析していた先生方がおっしゃった言葉は私の胸に深く刻まれている。

「『常識を破る』というのはなにも突飛なことをするというわけではない。それはただの非常識だ。『常識』という型を知らなければ常識は破れない。」

常識を知るためには基礎研究が必要で革新的な発見は基礎研究あってこそのものである。これは京都大学の先生方全員の共通認識でありおそらく全国の研究者の思うところであろう。

 

基礎研究の話は一度おいておこう。

文部科学省がいう「無駄」を省くとき、真っ先に俎上に上がった学問分野がある。それは文学部だ。

文学部は確かに理系の学問分野と比較すれば文系諸学問の中でも特に実態がわからない。そしてお金にもならない。哲学、文学、歴史学言語学…。これらの学問は「趣味の学問」といわれることが多く、ネット上でも人文科学に対する予算を減らすことについては珍しく賛同意見が多かった印象だ。そして歴史的に見れば人文科学が金銭的に余裕のある人や国家によって培われてきた分野であることも確かだ。

だが、本当にそのような学問に意味はないのだろうか。今回は歴史学に限定して話をしたい。

私は高校生の頃から日本史学に関心があり日本史に取り組める環境として近場では最も京大が優れていたため京大を志した。そんな私もただ日本史が好きなだけで歴史学の意味については深く考えなかった。しかし歴史学を学ぶものとして歴史学の意義や意味を知りたいのは必定である。

歴史哲学の書の中で最も著名なものの1つに、イギリスの外交官で歴史家でもあったE.H.カーの書『歴史とはなにか』が挙げられるだろう。書かれた年代が米ソ対立の深刻な時期で少し古いため、すべての内容が現在に当てはまるかといわれれば怪しいが、考え方そのものは今にも通ずるものが多い。

私は『歴史とはなにか』に多大な影響を受け、根幹にある考え方は概ね同じである。

「歴史とは現在と過去の絶え間ない会話である。」

これはこの本の中で度々繰り返される台詞である。どういうことか。

歴史は一度、歴史的価値があるとされたことがこの先ずっと価値を保つわけではない。歴史家が歴史を編むとき、様々な価値判断がくだされる。

まず事実がありその事実が歴史的に重要かどうかを見る。重要であればその事実が過去や未来の事実といかに関係しているかなどを整理していく。

歴史が時代とともに変化していく要因はここにある。価値判断を下し私たちにとって重要と判断されたものは、「今の私たち」にとって重要なのであり「過去の私たち」にとっては重要でないかもしれない。

歴史の変遷はダイレクトに私たちの価値観を反映する。いわば歴史とは価値観の鑑なのだ。歴史学が更新されなければ、今の価値観とそぐわない内容となり理解しがたい歴史観が築かれる。私たちが国家という枠組みの中で生きる限り国家の歴史を理解し受け止めることは必要だ。

例えば、韓国とは歴史問題を巡って対立が深刻化しているが、自国の歴史を知らなければ韓国側の歴史と擦り合わせながら理解するという異文化理解もままならない。グローバルな時代だからこそ自国の歴史を納得して理解し自分なりの歴史観を構築していかなければならないのだ。

歴史家はそのような営為を行う手助けをしてくれる。私たちが独自に歴史を構築しようと思ってもまず何千年という日本の歴史で起きた膨大な事実を整理できないし、過去の研究の蓄積も手元にない。初めにも述べたようにパラダイムシフトするためには『常識』がなければ出来ないのである。「歴史を理解する」ということと「歴史を独りよがりに整理する」ことは大きく違う。

歴史家が歴史的枠組みを構築し更新していき私たちは様々な形で新しい歴史観に触れていく。そうすることで私たちも現代に見合った歴史観を自分なりに理解する下地が出来上がるのだ。

歴史学などを抱える人文科学を切り捨てる政策を打ち出す文部科学省には正直失望している。自分たちの歴史観のみならず考え方を規定しているのは一体どのような人々なのか。私たちは一度人文科学に真剣に向き合った方がいいのかもしれない。

 

中山道中車輪栗毛5日目

令和の1日目は諏訪湖畔だった。

この日は中山道最強の敵を迎える。その最強の敵に会する前に安全を願いに行こう。

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私が安全を願いに行ったのは諏訪大社。諏訪地方はおろか全国的に参拝客を集める日本でも有数の神社だ。

諏訪大社で道中の無事とこれから迎える大敵に打ち勝てるよう祈願した。

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諏訪大社を出てその敵に向かう。

その敵の名は和田峠縄文時代は黒曜石の産地として利用され江戸時代は中山道の通り道として人々に利用されていた。今でも諏訪地方から佐久や軽井沢の方に抜ける道として利用者の数は健在だ。

中山道では最も難所とされ江戸時代の旅人たちの中には和田峠で命を落としたものもいる。道が整備された今でも相変わらずの難所で10km弱ほど5%を超える勾配の坂道が続く。東海道でいうならば箱根峠の立ち位置である。

諏訪湖はもちろん諏訪地方では一番標高が低く出発地点から和田峠まではずっと上り坂である。

さすが一番の難所。今まで登ってきたどの中山道の峠よりも厳しい。登り始めて30分もすると心臓と肺が握りつぶされた感覚になる。何度か立ち止まり休憩を取りながら登っていると1時間半程度で頂上に到達した。標高1536m。最悪なことに頂上に着くやいなや雨に襲われ寒い。さっさと下ろうと思い旧和田峠トンネルを抜けて下山する。

雨風は弱まるどころか強まるばかり。この日は佐久まで行きたかったのだが、和田峠と寒さに体力を奪われ和田宿で留まることにした。和田宿で温泉につかり休憩所で6時間程度休憩した。

江戸時代の旅人の中にも和田峠を越え雨に晒され和田宿で泊まったものはいるだろう。当時の旅人に思いを馳せた1日である。

和田宿の夜はきのこオムライスだった。長野県はきのこの産地でもあり様々なきのこが入っていて美味しかった。

この日は28km/768mのアップ。

中山道中車輪栗毛4日目

バスの停留所であったため長居はしたくないと思い6時前に起床した。

1つ前の記事でも触れたようにこの日はとにかく眠りにつける環境ではなかった。犬の睡眠のように浅い睡眠であったが、意外と寝不足感はない。人は極限状態に追い込まれると変なスイッチが入るというのは本当の話である。

7時に福島関所へ向かう。雨の日ということもあり人は少なかった。昨日負った手のひらの傷がずきずきと痛むが気にしたところでどうしようもない。

福島関所は中山道の主要な関所の1つ。箱根関、新居関、碓氷関と並んで日本四大関所の1つでもある。江戸時代の主要な道といえば「入鉄砲に出女」であるが、福島関所は特に「出女」の取締りが厳しかったそうである。私は専門の必修科目でくずし字を読まなければならず、修行の成果を見せるときだと思ったが全く読めない。見せる相手もいないから構わないのだが。

福島関所で通行許可が下り先へ進める。

福島より日本海側はかなりの山道である。道こそはしっかりしているが集落という集落がほとんどない。「木曽川の源流」がある木祖村を抜けて今までずっと付き合ってきた木曽川と離れる。

福島から2時間弱で奈良井宿に着いた。この日は90%の雨予報だったのだが、奇跡的に持ちこたえている。私は曇り男で雨予報でも曇りか傘をさすか迷うほどの雨に変えてしまう。この日も存分に発揮した。

奈良井宿も規模の大きい宿場町である。今までの宿場町とは違い道幅も広く歩きやすい。しかし景観を守ろうとする徹底さは先の2つの宿場に負ける。車が出入りできる点も少し残念。

いい加減そば以外の食べ物に食らいつきたいと思ったが、なかなか見つからない。長野県の観光地にある飲食店は驚くほどに蕎麦だらけだ。美味しいが、何度も食べては飽きてしまう。結局、岩魚定食の店があったのでそこで食事をとった。

竹細工の店でキセルを買った。私は日頃は喫煙者でキセルは少し憧れであった。勿体なくてまだ使っていないが、覚悟ができれば使うつもりだ。

奈良井を出て最終目的地の諏訪湖へ向かう。

曇り男の力が弱り始めポツポツと雨が降り出した。奈良井から2時間弱で旅人を苦しめた峠の1つである塩尻峠の入口に着く。本格的に登る前に道の駅で休憩する。

なんとなく安曇野ヨーグルトを買ったのだが、このヨーグルトが今まで食べたどのヨーグルトよりも美味しい。長野県の諏訪方面に出かける予定があれば買ってみてほしい。

雨で体が濡れとにかく寒い。体を温めるためにも早く出よう。

塩尻峠はそこまで苦しくない。確かに距離は長いのだが、そのぶん勾配がそこまで急ではないのだ。塩尻峠を登ってしばらくすると「高ボッチ高原入り口」という標識が見えた。そう、高ボッチ高原といえば「ゆるキャン△」の聖地である。あいにくの天気で登ることは叶わなかったが、塩尻峠までの道は志摩リンが見た景色。全身がたぎる。

塩尻峠の頂上に着いた。標高約1100m。頂上は高ボッチ高原ほどではないが諏訪湖を一望できる。志摩リンが見た光景と似ていた。

あとは下るだけである。塩尻峠のダウンヒルはとても心地が良い。眺望が開けており諏訪湖を一望しながら下れるのである。温まった体にも少し冷えた風が心地良い。

ダウンヒルの時間はあっという間に過ぎる。下諏訪まで移動した。明日は和田峠にアタックするのでなるべく近付きたかったのだ。

何気にこの日は平成最後の日であった。

カナディアンロッキーという諏訪地方では有名なステーキハウスでステーキを堪能し下諏訪温泉でくつろいだ。自分の中では限りない贅沢である。

諏訪湖畔で眠りについた。この日は平和な夜であった。

64km/735mのアップ。